飲食店経営2006年7月号掲載

木村 容子 さん

【略暦】
1971年、宮城県出身。仙台の大学の家政学科を卒業後、地元の建築設備会社に事務職として9年間勤務する。小さいころから料理やお菓子作りが好きだったことから、カフェなどの飲食店を開業したいと、32歳のときにジャパン・フードコーディネーター・スクールに入学する。卒業後は中国料理店「麻布長江」での接客サービスの仕事を経て、宮城県のFMSプロジェクトのスタッフとしてマーケティングの仕事に携わる。2005年に木村光氏と結婚し、同年12月東京・渋谷にクジラ料理と日本酒をメインとするバー「公界」をオープンする。


社会人になってしばらくの間は、与えられた仕事をいかに支障なくやり遂げられるか、そのことだけで精いっぱいなもの。そうして仕事の要領が分かってくると、時間にも余裕が生まれる。ところが余裕が生まれると、「このままでいいのだろうか」「これからどうすればいいのか」という疑問がわいてくる。

先が読めない時代だけに、将来に対する不安が膨らんでしまいがちだ。木村容子さん(35歳)も同じだった。地元仙台で9年間建築設備会社に勤務しつつ、一方では常に自分の将来を考えていた。仙台市内にカフェをオープンするのが夢だったが、30歳になるとその夢を実現することを真剣に考えるようになった。

「といっても、カフェに勤めた経験もないので、どうしたらお店を出せるのか分かりませんでした。」と容子さんは話す。  しかも地方都市のため、カフェの開業準備の方法を教えてもらえるところも近くになかった。容子さんは関連の専門誌などを読んで手掛かりを見つけることにし、雑誌を目にする中でフードビジネス・コーディネーターという職種の存在を知った。

「自分が興味を持っていたことがフードビジネス・コーディネーターの仕事内容と合致していたのです」(容子さん)
そこで、雑誌でその存在を知ったジャパン・フードコーディネーター・スクール(以下JFCS)への入学を決心。授業が始まった当初はまだ仙台に住んでいたため、仙台と東京間を夜行バスで往復していたという。容子さんにとって、JFCSの授業を見聞きすることは初めてのことばかりで、勉強内容も想像以上に幅が広がった。さまざまな分野に引かれ迷ったが、そのうちにレストランのプロデュースの仕事に携わりたいと考えるようになった。とはいえ実践を積まないことには、単なる絵に描いた餅で終わってしまう。そこで、容子さんはJFCSを卒業すると、スクールの講師陣の一人でもある都内西麻布の中国料理店「麻布長江」のオーナーシェフ・長坂松夫氏の下で接客サービスの仕事をさせてもらうことにした。
「日本一のサービスマンを目指せ」と長坂氏から激励されながら、サービスの基本をたたきこまれた。さらに、長坂氏は雑誌やテレビ番組の取材を受けることが多いことから、その都度容子さんもその撮影に「立ち会うことを許され、フードビジネス・コーディネーターとして現場を踏むことができた。
「料理撮影時にはテーブルコーディネートの現場に立ち会い、長坂シェフの料理の作り方や盛り付けなどを間近で見ることができて、とても勉強になりました」(容子さん)

同店に勤務して1年を過ぎたころに、同じくJFCSの講師の一人である三輪宏子氏からスタッフとして手伝ってほしい、と声が掛かった。というのは三輪氏が宮城県の「食材王国みやぎ緊急再生プロジェクト」という地元の生産者を支援するプロジェクトのコンペを勝ち抜き、FMS(フードマネジメントシステム)プロジェクトを立ち上げ仙台で活動することになったためだった。容子さんは仙台出身ということもあり、その仕事を引き受け、宮城県内の生産者と交流を図りながら商品のテスト販売やイベントを通じて、産物の商品化を図るというマーケティングの仕事に携わった。
それらの仕事を懸命にこなしていく中で、日本酒に強い松島の酒販店「むとう屋」、蔵元の阿部勘酒造、シルクを練り込んだ「シルク麺」の開発者である「泉月」の泉田氏など、容子さんの人脈は大きく膨らんでいった。プライベートではご主人となる木村光さんと出会い、2005年9月に結婚。当時、光さんはユーズドやビンテージのアメリカ製衣料品の企画営業をしていたが、以前から飲食店を開きたいという気持ちがあり、気になっていた物件もあった。場所はNHKに近い東京・渋谷の裏通り、飲食店の多い一角のビルの1階。その物件が空いていることを偶然通りかかった容子さんが見つけて、05年10月に契約。広さ7坪、カウンター10席のこぢんまりと居心地の良いバーをオープンさせた。

「常に新しい雰囲気を」と毎月替える店内装飾

店名は、「聖域」「避難所」のように政治権力の及ばない、中世に存在した場所の名前から、「公界」と光さんが命名。主に容子さんがフードメニューを担当し、光さんがドリンクの提供と接客に当たる二人三脚のスタイルだ。 
「物件が決まった時にはまだお酒と料理を提供する店というだけで、具体的なプランは何も決まっていませんでした」と木村夫妻は苦笑する。
だが、それまで仕事を通じて築いてきた容子さんの人脈が力を発揮した。店舗デザインは友人であるガタイパーソナルデザインの萩本雅泰氏に、日本酒の品揃えはむとう屋に、公界のオリジナルラベルは阿部勘酒造に、とそれぞれ依頼することができた。さらに容子さんが担当するフードメニューはクジラ料理をメインにすることに決め、宮城県の石巻でクジラ料理を教えている千田親娘に作り方を習ったり、さえずりや味蕾などの珍しいクジラの部位を手配してもらうことも可能になった。 
「テナントの保証金などを含めて総投資額はかなり予算をオーバーしましたが、5年で完済できるような計画を立てています。この店はあくまでもファーストステップの位置付け。クジラ料理や日本酒、ディスプレーなどの要素を抜き出して、今後の店づくりに反映させ、多角化していこうと思っています」と木村夫妻は語る。 
「常に店に新しい雰囲気を持たせていたい」と考える2人は、4月は日本酒、5月はカエル、6月はレザー製品というように、月ごとにテーマを決めて店内の装飾もがらりと替え、それに合わせて季節の生花を飾る。今後も「知人のデザイナーなどに声を掛け、展示作品の販売なども行っていきたい」と光さんが話すように、アイデアは尽きない。当面は月商120万円を目標にし、営業が軌道に乗ったら、さらなる出店のステップに向けて大きく舵を切っていく予定だ。